BELTON / JUMEAU: Separation....

1844年の商業博覧会で大きな成功を収めた "ベルトン&ジュモー"社はその後も人形制作を続けました。し かし、ピエール・ジュモーの妻アメリーの早死は、このパートナーシップの終わりが近い事を感じさせました。"ベルトン&ジュモー"社は4人のパートナー シップで構成されていたので、そのいずれかの旅立ちは自然崩壊をもたらすものでした。そして何よりも、この時代の古典的なビジネススタイルは、商業という よりは、より家族的なものであったからです。
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1844年の商業博覧会以後、パリの人形メーカーは、彼らの仕事の重要な位置を知り、今後の展望を持つ事が出来ました。ベルトンは、先代から定義されたスタイルを続ける事が好ましいと考えていました。

ピエール・ジュモーは、今後の人形制作には明るい未来があることを確信していました。ピエールは、自分の内面性を表現する、技術革新の希望を持っていました。1844年の博覧会で Brouillet が展示した人形のような、洋服の着脱が安易な、独自の人形を作りたいと考えていました。そしてそれに伴い、作業方法を変更し、労働力を拡大しなければならず、当然危険がともなうことも認識していました。でも彼は、大切な友人をこの危険な冒険に誘う事を望みませんでした。
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1845年2月14日、約4年間続いた"ベルトン&ジュモー"社は合意のもとに解散しまた。

パー トナーの解散は、彼らの継続的な友情と信頼の中で穏やかに進行しました。それは、 終焉の取り決めには、ピエール・ジュモーが同じ人形制作のビジネスをスタート出来るようになっていました。それはこの時代、一般的に後継者が元のビジネス を続ける際には、離脱したパートナーが類似のビジネスを立ち上げる事は出来なかったからです。このようにしてピエールは、ベルトン家との友情の中で、彼自 身の人形ビジネスを始める土台が出来ていました。

ピエール・ジュモーは、新しい場所 パリ 18 rue mauconseil  (画像は現在)に移りました。ベルトンは、エリセー社を成功に導いた真の後継者として、同じ場所にとどまり人形制作を続けました。